大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

仙台地方裁判所古川支部 昭和44年(わ)135号 判決 1975年3月04日

主文

被告人七名はいずれも無罪。

理由

第一、本件公訴事実は、

被告人らはいずれも国鉄動力車労働組合の組合員であるが、

第一  被告人大場宏治、同高橋〓一郎、同森勇、同狩野猛夫、同福内清二らは、昭和四四年一一月三日午後五時二五分ころ、遠田郡小牛田町字藤ヶ崎一一七国鉄東北本線小牛田駅一番線ホームにおいて、乗務報告及び終業点呼のため陸羽東石巻線管理所に赴く途中の機関士兼気動車運転士佐久間裕(当四三年)を認め、同人が先に前記労組を脱退したことに憤慨し、ほか数名と共謀のうえ、右佐久間の右肩を押えてとり囲み、「この野郎、裏切り者、裏切つてただですむと思つているのか」等と怒号しながら、同人の胸部、両肩を強く押し、ホームの柱に押しつけ、かわるがわる体当りし、あるいは襟首を掴んで椅子の上に押し倒し、さらに同人の右足を足蹴りにする等の暴行を加えて同人の右職務の執行を妨害し、その際右暴行により同人に対し加療約一三日間を要する頭部、背部、右下腿挫傷の傷害を負わせ、

第二  被告人千葉昭治、同千葉繁は、ほか数名と共謀のうえ、前同日同時ころ、前同所において、前記被告人らの暴行行為を制止しようとした国鉄小牛田公安室鉄道公安官狩野五千夫(当二一年)の前に立ちはだかり、「公安なんか用はない、帰れ」と申し向けながら、同人の胸部を押し、腕を掴んで引き、さらに胸ぐらを掴んで引つ張り、左大腿部を蹴りつける等の暴行を加え、もつて同鉄道公安官の職務の執行を妨害し

たものである。

というのである。

第二、弁護人の公訴棄却の申立に対する判断

弁護人は、「本件公訴の提起は、日本国有鉄道(以下単に国鉄という。)、警察、検察庁が一体となり、国鉄の合理化対策を貫徹すべく、これに反対する国鉄動力車労働組合(以下単に動労という。)に所属する被告人らを起訴することにより動労組織を切り崩すことを目的としたものであり、また、本件現場には被告人ら以外にも多数の動労組合員がいたのにもかかわらず、それらの者については捜査せず、動労の活動家である被告人らだけを起訴したものであり、他方、国鉄の管理者側の動労組合員に対する暴力行為に対し、検察庁は略式起訴に処するかあるいは長期間にわたりその処分を保留するなどの措置を講じており、これらの処置に比較し、被告人らに対する公訴提起は不当な差別であり、このような検察官の公訴提起は憲法一四条一項、三一条、刑事訴訟法一条等に違反し、同法二四八条所定の公訴権の裁量の範囲を逸脱し、又は濫用するものであつて無効であるから、同法三三八条四号により公訴棄却の判決をすべきである。」旨主張する。

検察官の公訴提起は、裁判所に対する訴訟行為であるから、受訴裁判所においてその適法性の審査をなしうべきであり、その公訴提起が憲法一四条一項、三一条、刑事訴訟法一条に違反する場合には、同法二四八条所定の検察官の裁量の範囲を逸脱し又は濫用したものとして公訴提起手続の無効を理由に、同法三三八条四号により公訴棄却の判決をすべきであると考えられる。

本件においては、後記認定のごとく、被告人らは動労に所属し、動労仙台地本小牛田支部(以下単に動労小牛田支部という。)の役員を経験し、組合の中心的構成員であり、被告人らを含む動労においては、昭和四二年以降機関助士廃止、列車の一人乗務制についての国鉄の提案に反対し、昭和四四年には二度にわたるストライキを敢行して国鉄と対立抗争関係を続けてきたことは認められるが、本件各証拠を仔細に検討するも、国鉄、警察、検察庁が一体となり国鉄の政策を推進させるべく組合の組織を切り崩す意思をもつて本件被告人らに対し公訴提起をしたと認めるべき証拠は存しない。また後記認定のごとく、本件現場には被告人ら以外の動労組合員も多数おり、本件各証人は被告人ら及びその他の者の行動について供述するが、いずれも被告人らのみしか面識がないか、あるいは被告人らをも判別できない程度の面識しかないのであつて、その証拠上の制約面から氏名、行動等が判明すると判断される本件被告人らだけが起訴されたものとうかがわれるのであり、他に氏名及びその行動が証拠上判明するのにもかかわらず起訴をなさず被告人らのみを起訴したと認めるべき証拠もない。国鉄の管理者の暴行行為については、弁護人の主張に沿う第一九回公判調書中の証人渋谷政一、同細川幸男の各供述部分が存在するが、その暴行行為及びその刑事処分等いずれも伝聞供述であり、その真偽のほどをにわかに決し難く、他に被告人らを起訴したことが不当な差別であると認めるべき証拠もない。

その他、本件各証拠を仔細に検討しても、検察官の公訴提起がその裁量の範囲を逸脱し、濫用にわたつたと認めるに足りる証拠はないから、弁護人の公訴棄却の主張は採用しない。

第三、本件に至る経緯等

第二回ないし第五回公判調書中の証人佐久間裕、第六、七回公判調書中の同三浦慶男、第一二回公判調書中の同鈴木重義、第一三回公判調書中の同小野寺典次、第一七回公判調書中の同目黒今朝次郎、同竹森彦左衛門、第一八回公判調書中の同福田一男、第一九回公判調書中の同渋谷政一、同細川幸男の各供述部分、被告人七名の当公判廷における各供述、仙台鉄道管理局長作成の履歴用紙七通、鈴木重義撮影の写真三葉(昭和四七年押第一六号の二)によれば以下の各事実が認められる。

一、被告人らの経歴

(一)  被告人大場は、昭和三二年六月国鉄に採用され、本件当時(以下特に断らない場合は本件当時の所属と職種である。)仙台鉄道管理局陸羽東石巻線管理所車両科(以下単に陸石線管理所車両科という。)(但し昭和四六年四月一日より小牛田運転区と改称)に所属する機関助士兼電気機関助士であり、その間動労小牛田支部組合員として活動し、同支部の執行委員を歴任している。

(二)  被告人高橋は、昭和三一年六月国鉄に採用され、昭和四三年一〇月まで仙台鉄道管理局福島機関区及び陸石線管理所車両科に、それ以降、同管理局郡山機関区に所属する機関士として勤務し、その間動労福島、小牛田支部に所属して組合活動をし、小牛田支部の執行委員、書記長等、また動労仙台地方本部役員を歴任し、現在同本部郡山支部組合員である。

(三)  被告人森は、昭和三八年九月国鉄に採用され、陸石線管理所車両科に機関助士として勤務し、その間動労小牛田支部組合員として活動し、同支部の執行委員、書記次長を歴任している。

(四)  被告人狩野は、昭和三二年四月に国鉄に採用され、陸石線管理所車両科に機関助士兼電気機関助士として勤務し、その間動労小牛田支部組合員として活動し、同支部の青年部長を歴任している。

(五)  被告人福内は、昭和三一年一二月国鉄に採用され、福島機関区を経て、陸石線管理所車両科に機関助士兼電気機関助士として勤務し、動労小牛田支部組合員として活動し、同支部執行委員及び仙台地方本部の執行委員を歴任している。

(六)  被告人千葉昭治は、昭和一九年五月に国鉄(当時の鉄道省)に採用され、陸石線管理所車両科に機関士として勤務し、動労小牛田支部組合員として活動し、同支部の執行委員、書記長、副委員長を歴任している。

(七)  被告人千葉繁は、昭和三二年七月に国鉄に採用され、陸石線管理所車両科に機関助士兼電気機関助士として勤務し、動労小牛田支部組合員として活動し、同支部の青年部長、執行委員を歴任している。

二、佐久間裕の経歴

本件公訴事実第一で被害者とされる佐久間裕は、昭和一六年国鉄(当時の鉄道省)に採用され、機関士を経て陸石線管理所車両科に気動車運転士として勤務しているものであり、昭和二四年動労の前身たる機関車労働組合結成と同時に同組合に加入し、昭和三五年までの間動労小牛田支部の執行委員、書記長、昭和三六年仙台地方本部の委員となつたが、それ以後は同組合の役員には選任されず、昭和四四年一〇月二六日動労を脱退した。

三、本件の背景について

(一)  機関助士廃止問題について

国鉄は、昭和四〇年第三次七ヶ年計画を建て国鉄財政の再建をはかり、その一環として、昭和四二年三月三一日機関助士を廃止し、列車乗務を一人とするいわゆる一人乗務制の実施、及びこれに伴う国鉄職員の五万人削減案を発表したが、動労は、右提案は、機関士の労働強化と雇用不安をきたすものであり、乗客の財産、生命、身体の安全性にかかわる重大問題であるとして、断固反対する態度をとり、国鉄との間に団体交渉を繰り返してきた。国鉄及び動労の双方は、昭和四三年一〇月一日、第三者機関に調査研究を委嘱しその結論に従う旨の合意に達し、EL・DL委員会(通称大島委員会)を設置し調査、研究を依頼し、昭和四四年四月九日同委員会は一人乗務制の実施は安全である旨の報告書を提出し、同年五月九日、国鉄はこの結論にもとづき同年六月一日より一人乗務制を実施する旨動労に通告したが、動労は右委員会における実験はきわめて簡単で杜撰であつてこの報告を正当なものとして受け入れその結論に従うことを拒絶し、同年五月三〇日より六月一日までの間ストライキを敢行し、国鉄に対抗することとなり、五月三〇日のストライキに突入したが、同日国鉄が六月一日より実施する案を撤回することで一応の収拾がなされたところ、同年九月二二日に至り、国鉄は再び一〇月一日より一人乗務制を実施する旨通告し、動労がこれを拒否して公共企業体等労働委員会にあつ旋を申請し、そのあつ旋案にもとづき、国鉄は一応一〇月一日よりの実施案を撤回したのであるが、動労としてはこの問題につき国鉄側に最終的に提案を撤回させ、決着をつけるべく、同年一〇月三一日、同年一一月一日の両日にわたりストライキを敢行することを計画した。

(二)  昭和四四年一〇月三一日のストライキ及び佐久間らの組合脱退について

動労は、右のごとく一人乗務制等に反対し、昭和四四年一〇月三一日、一一月一日の両日ストライキに突入することとし、動労中央本部より動労小牛田支部もその拠点に指令されストライキの態勢に入つたが、一〇月二六日ころより二九日ころにかけて動労小牛田支部組合員約二〇名が脱退し、同月三〇日ころまでの間にそのうちの九名が動労と主義主張を異にする鉄道労働組合に加入するという事態が発生した。動労小牛田支部は一〇月三一日予定通りストライキに突入したが、同日国鉄との間に、機関助士廃止、一人乗務制、五万人削減問題につき最終的な合意に達し、紛争が解決しストライキを中止したのである。被告人高橋を除く他の被告人らは動労小牛田支部におけるストライキに参加したが、佐久間裕は、動労の運動方針は政治闘争至上主義であり、ストライキで問題を解決する考えに反対し、動労を脱退することを決意し、同月二六日脱退届を提出し、同月二八日鉄道労働組合に加入し、ストライキには参加しなかつた。動労小牛田支部では、佐久間らの組合脱退者の行為はいわゆる「スト破り」であるとし、同人らに抗議し、一一月一日陸石線管理所車両科前の掲示板に、組合脱退者の氏名を掲げ、それに黒わくの囲みをかけ、墓標等をあしらつた絵を書いてそれらの者を非難した。佐久間裕も、脱退の翌日より、動労小牛田支部組合員から右のような抗議、非難を受けたため、動労組合員に対し激しい憤りを抱いていた。このように動労小牛田支部の現組合員と元組合員らの間の対立が激化したため、一一月一日、陸石線管理所においては、管理者は組合脱退者が組合員より抗議行動を受けないよう保護することになり、佐久間裕に対しては同管理所指導科長三浦慶男が保護の任務に当たることとなつた。

第四、本件公訴事実第一について

一、本件発生の直前までの状況

第二回ないし第五回公判調書中の証人佐久間裕、第六、七回公判調書中の同三浦慶男、第八回公判調書中の同阿部勇一(以上を佐久間証言、三浦証言、阿部証言ともいう。以下公判調書中の証人の供述部分をもこの例にならうことがある。)、第二〇回公判調書中の同熊谷八重子の各供述部分、被告人七名の当公判廷における各供述、司法警察員作成の実況見分調書(但し三の2ないし四を除く)、鉄道科学社発行の人事関係法令集中の「機関車乗務員及び電車運転士の勤務及び給与についての特別規程及びその解説」(通称内達一号)、仙台鉄道管理局作成の動力車乗務員執務標準(昭和四七年押第一六号の六)、陸羽東石巻線管理所車両科作成の作業内規(同号の七)によれば、以下の各事実が認められる。

(一)  被告人ら七名は、昭和四四年一一月三日、宮城県宮城郡松島町で行われた友人の結婚披露宴に出席した後、動労小牛田支部組合員ら約二〇名とともに東北本線松島駅より急行千秋二号に乗車し、同日午後五時二三、四分ころ同県遠田郡小牛田町字藤ヶ崎一一七番地所在国鉄東北本線小牛田駅二番線ホームに到着し、ばらばらに同ホーム中ほどにある待合室付近で下車した。(別紙小牛田駅一、二番線ホーム見取図((実況見分調書図面及び関係証人の証言により位置関係を要約したもの))<1>、以下単に見取図という。)被告人らは各々同ホーム北側にある跨線橋へ向かつて歩いていたところ、ホーム上でだれかが「佐久間が来た。」と声をあげたのを聞きつけ、動労小牛田支部を脱退した佐久間裕が同ホーム上にいることを知り、まず被告人大場において、待合室北側の水飲場付近を一番線寄りに南方に向かつて歩行中の佐久間を発見し、同日午後五時二五分ころ、同人に近寄り動労を脱退したことで抗議し(見取図<2>)、間もなく他の被告人ら動労組合員もその付近に集まり抗議が始まつた。

(二)  一方佐久間裕は、同日は出勤日であり、午前九時三〇分ころより列車乗務に就き、同日最後の乗務として仙台駅一六時四六分発急行千秋二号を運転し、午後五時二三、四分ころ小牛田駅二番線ホームに到着し、その運転室内で次の運転士と勤務を交替するため引継ぎを行ない、右手に携帯鞄、左脇に運転時刻表を中にはさんで折りたたんだ座布団を抱え込み、左手にハンドルをそれぞれ携帯して、同ホーム跨線橋付近に下車した。(見取図)下車した付近の一番線寄りホーム上には、陸石線管理所指導科長三浦慶男が前記のごとく佐久間を保護すべく待機しており、その付近で佐久間を出迎えた。佐久間は乗務終了後に行なうことが義務づけられている終業点呼を受けに赴くべくホームを横切り一番線ホーム寄りを南方に向かつて歩き始め、三浦は、佐久間を保護すべく同人のやや右後方を歩行していたところ、たまたま前記のごとく被告人大場らと出合い抗議を受けることになつた。(見取図

二、佐久間証言について

(一)  本件公訴事実第一の被告人五名(被告人らのうち同千葉繁、同千葉昭治を除く、以下同じ。)の所為をその全般にわたり、かつ具体的に供述しているのは、本件被害者佐久間裕の供述部分のみであり、この佐久間証言の信用性の有無は本件の結論を左右するものであるので以下にその要旨を述べ、その信用性を詳細にわたつて検討する。

(二)  佐久間証言の要旨は次のとおりである。

1.佐久間裕がホーム一番線寄り待合室北側の売店付近(見取図)でいきなり被告人大場より背後から右肩をつかまれて引つ張られ、向かい合い、大声で抗議されたが、間もなく動労小牛田支部組合員ら約一〇名ぐらいに取り囲まれてしまつた。三浦は少し遅れて来て止めに入つたが、組合員らに引つ張られ佐久間と引き離されてしまつた。被告人大場は両手で佐久間の胸倉をつかみ、徐々に押しながら待合室北側にあるベンチ前の柱付近まで至つた。(見取図)その間、被告人福内が肘で横腹を突き右肩で押し、被告人森は同福内の後から一緒に佐久間を押し、手で肩や胸を押したり突いたりし、被告人狩野は両手で何度か胸を突き、被告人高橋は同狩野の後にいて同人の後から一緒に佐久間を押した。この間の被告人らの位置は、佐久間より向かつて右側から被告人森、同福内、同大場、同狩野、同高橋の順である。

2.見取図付近に至り、被告人大場が佐久間の胸元より一時手を離し、その間に被告人福内は佐久間の前を横切り左側に移動した。被告人大場は再び佐久間の胸倉をつかみ柱に押しつけ、被告人森も左肘で体を押し、被告人狩野が両手拳で二、三回以上胸を突き、被告人高橋は同狩野の後ろから佐久間に覆いかぶさり柱に押しつけようとしたり、同狩野と同福内の間から肘で押すようにした。その後、被告人大場に胸倉をとられたまま徐々に押されベンチ付近(見取図)に至つた。このベンチ付近に至つたころには被告人福内の姿は見えなかつた。

3.ベンチ付近において、被告人大場は佐久間の胸倉をつかんだまま同人をベンチの上に置いてあつた荷物の上に仰向けに押し倒し、その時、同人は頭部をベンチの背板に打ちつけた。被告人大場、同狩野、同高橋は、佐久間の上に覆いかぶさり、起き上がろうとする同人の上に被告人大場、同高橋が再び覆いかぶさつて来た。佐久間が再び起き上がつたとき、被告人狩野、同森の姿は見えなかつたが、同高橋に胸をつかまれ、再びベンチ上に押し倒され頭部を打つた。このころには被告人狩野、同森も付近におり、再び立ち上がつたところ、被告人高橋はベンチに腰をかけ柱に足を投げ出して脱出を防ぎ、同森が再び佐久間の胸倉を両手でつかみ、足をかけてベンチに押し倒した。これによつて同人は頭部をベンチに打ちつけられ、倒れている間にも多分被告人森と思われるが同人から四、五回両足を蹴られた。右三回にわたりベンチ上に押し倒されたが、その間佐久間は左右の手及び左脇に持つていた前記所持品を一度も落としたことはない。本件後三浦に救出され、陸石線管理所車両科において終業点呼を受け、右暴行につき報告書を作成した後、足や頭部が痛むので見たところ、頭部が腫れ、足から血が流れていた。

というのである。

三、その他の目撃証人の証言

(一)  三浦証言

1.三浦証言の要旨は次のとおりである。

同証人は、当日、前記のとおり、佐久間を動労小牛田支部組合員から保護する任務を負い、佐久間をホームで出迎え、一番線寄りホーム上を同人が左側を、三浦がその右側を一、二歩遅れて歩いて行つたところ、いきなり「この野郎」という大声がしたので佐久間の方を見ると、同人が被告人大場と向かい合つていたので二人の間に入り仲裁したが、被告人大場が佐久間に手をかけたかどうか記憶がない。直ぐに約一〇名ぐらいの者が集まり口々に「この野郎」、「裏切者」といいながら佐久間を囲み、被告人大場が三浦を囲んだが、その集団の中には被告人森、同福内、同狩野もいた。三浦は「妨害するのか。」と叫んだが、集団の者より「お前に用事はないから帰れ。」と言われ、手を引つ張られて佐久間と離されてしまい、同人のいる位置より南方四、五メートル付近(見取図)に連れて行かれた。その場から佐久間の方へ行こうとしたが阻止された。しかしそれを振り切つて二回ぐらい同人のそばに行つたが、佐久間が集団にとりまかれていたため、その中で同人がどうなつていたのかはわからなかつた。また三浦自身、三、四人に囲まれており、その集団の中に入つて行くこともできなかつた。もつとも特定の人が終始そばにいたわけでなく、入りかわりしていたようである。その中で時間的に一番長く、はつきり記憶しているのは、被告人大場に右腕をがつしりつかまれておつたということである。見取図付近にいたのは一〇分間ぐらいであり、佐久間がとりまかれてから四、五分経過したころ、被告人大場がやつて来たと思う。三浦が腕をつかまれていて何か抜けようとした時体当りをして来た者があり、その男は自ら「高橋」(被告人高橋)だといつていたが同被告人も三浦を阻止していた。

というにある。

2.三浦証人は、陸石線管理所の助役であり指導科長であつて、当日は動労の組合員との紛争を避けるため佐久間を保護すべき任務にあり、万が一にも不詳事が発生した場合には、直ちに救出措置をとるとともに、事後処置上、また上司への報告のためにも佐久間がどのような行為を受け、知りうる限りだれがどのような行為を行なつたかについて十分監視すべき業務上の必要性があるとともに、それが保護の任務にある三浦の最大の関心事であつたといわざるを得ない。したがつて可能な限り佐久間及び被告人らの行為を注視し、また注視しようとしていたと推測するに難くなく、現に前記証言によれば、二回も佐久間の囲まれているところまで近づいているのである。次に、三浦は、佐久間の姿は被告人らに囲まれて見えなかつた旨供述するが、本件においては後記のごとく様々の角度から様々な証人が、その程度に差があるにせよ、佐久間やその付近にいた者の行動につき目撃することができたのであり、三浦から佐久間のいるところまでの距離もそれほど遠くなく佐久間をとりまく集団も隙間なく人垣をつくつていたものとも思われず、一部なりとも佐久間の姿を見ることは可能であり、いわんや佐久間をとりまく者の行動については十分目撃しうるはずであり、佐久間証言のごとく佐久間が三度もベンチ上に倒されたのであれば、その衝撃音を聞く機会もあつたものと思われるのである。しかるに三浦証人は、前記供述部分において、暴力行為については何ひとつ具体的な供述をなしていない。したがつて、三浦証言によつては佐久間証言を補強することはできないのみならず、かえつて同証人は現場を目撃したが、そこに佐久間のいうような被告人らその他動労組合員による暴行を目撃しなかつたとさえいわざるを得ない。

(二)  阿部証言

1.阿部証言の要旨は次のとおりである。

同証人は、小牛田駅運転掛助役として列車発着の監視業務に従事しているものであり、当日一七時二五分ころ急行千秋二号の発車ベルを鳴らすためベンチ南側二番線寄りの柱に行きベルを鳴らしたが、ベンチの南方一番線寄りホーム上で騒がしい声が聞こえ、四、五人の者が佐久間を取り囲み、同人の後両脇に体をくつつけるようにしていた。ベルを押し終り、乗降客の様子を確認しようとしたとき瞬間的に見たところ、被告人福内がベンチの南側付近で佐久間の前に立ち、同人に体をつけ、右肩でこづくような格好をして佐久間の歩いてくるのを阻止したように記憶している。列車の車掌に合図を行ない、騒ぎの方を見たところ、集団はベンチの方へ移動し、佐久間はベンチに故意に腰掛けたというような姿勢で腰掛けていた。同人の前にだれかが手を出したのを記憶している。また佐久間の前にいた人がその上に覆いかぶさるような格好をしていた。

2.右供述部分中被告人福内の行動については、阿部証人が列車の出発業務に注意を注いでる時に瞬間的に見たものであり、その前後の同被告人の位置、動静につき全く認識がなく、右被告人の所為がいかなる状況下でなされたものであるかについて不明であり、佐久間の動静に関する証言も同様であつて、詳細な尋問にもかかわらず、右証言からは被告人らを含む組合員が佐久間を囲んで騒いでいたということ以上に具体的なものは抽出できない。

(三)  第一二回公判調書中の証人早坂輝夫の供述部分(早坂証言)について

1.早坂証言の要旨は次のとおりである。

同人は営業担当助役であり、当時一、二番線ホームで案内、切符販売をしていたところ、ベンチの一番線寄りで酒気を帯びた七、八名の者が騒いでおり、下の方の人に対し、こづいて暴行をしていたような状況を見た。その中に顔見知りの被告人福内がおり、体を動かしていたのを見た。これを見てすぐに公安室に連絡すべく電話ボツクスに行き電話をかけたけれども公安室は出なかつたが、そこに被告人千葉繁が来て事態を収めるというので電話をかけるのをやめ、ベンチ付近に戻つたところ、佐久間と三浦が南方に向かつて歩いて行くのを見た。そのうちベンチ付近で音がしたので見ると、二人の者が口論しており、その一人は被告人千葉昭治であり、狩野鉄道公安職員が仲裁に入つたところ、同人が同被告人に胸倉をとられていた。そこでほほを殴つたような音があつたのでふり向いたら酔つている二人が口論していた。

2.右証言によると、佐久間が動労組合員ら七、八人からこづかれていたことがうかがわれるごとくであるが、その具体的内容についての証言は全く得られず、(弁護人の尋問に対し、「七、八人の内真中にいた人達がいわゆる下の人をこづいておつたという状態でした。」、問「こづくというのはどういうことですか、具体的にいうと。」、答「下の人にむかつて……」、問「下の人は見えたんですか。」、答「見えません。」と述べているにとどまる。)なお同証人は、検察官に調べを受けたときにはこづいたということは述べず、動労組合員らが酒を飲んで騒いでいるという状態を述べたにすぎない旨証言している。そうすると、右証言によつては被告人ら又はその周辺にいた動労組合員によつて佐久間が暴行を受けたことを認めることはできないし佐久間証言を補強するに足りない。

(四)  第一〇回公判調書中証人鈴木美代子(鈴木証言)、同鎌田郁子(鎌田証言)、第一一回公判調書中同酒井かね子(酒井証言)、同遊佐幸恵(遊佐証言)、第一三回公判調書中同高橋みつ江(高橋証言)の各供述部分について

1.右各証人は本件当時、女子高校生で当日行なわれた宮城県下の軟式庭球大会の帰途、乗換えのためベンチの上に手荷物を置き、一、二番線ホームで待合わせ、本件を目撃した者である。

鈴木証言の要旨は、「機関士らしい人の前にふたりの男がいて、機関士の右肩を右手でつついていたと思う。酔つぱらいがからんでいたと思う。駅の制服を着た人が仲裁に入つたが阻止された。機関士らしい人はベンチに押し倒されたみたいであつた。ベンチの荷物の上にその人が尻もちをついたような恰好ですわり、すぐ立とうとした。……公安官が来たのですごくオーバーなけんかだといつた。酔つぱらいがからんでいつてちよつと口論しているぐらいだと思つたのに、そこへ公安官が来たのでびつくりした。」というのである。

鎌田証言の要旨は、「一〇人ぐらいの人が機関士らしい人を囲んで口論をしていたようだ。だれか一人がその人の胸倉をつかんだ。四〇才ぐらいの人が仲裁に入つて止めようとしたのを覚えている。(その人は)わたし達がベンチの上に置いた紙袋の上に尻もちをつくような恰好で倒れたがすぐ立つたと思う。そのため紙袋の中の賞状がつぶれていた。」というのである。

酒井証言の要旨は、「ベンチの前の柱付近でけんかをしているのを目撃した。その状況は四〇才ぐらいの男が三〇才ぐらいの背広を着た人にえり首をつかまれ、そのまわりに一〇人ぐらいの人がいた。えり首をつかまれ、押されたり引つぱられたり、ゆすぶられたりしていた。」というのであるが、同証人はベンチの上の状況は見ていない、という。

遊佐、高橋両証言は、「ベンチ付近でいざこざがあつたようだが細かい記憶がない。」という程度のものであり、高橋証言によると、「酔つぱらいが駅員につつかかる感じでからんでいた。それは身体と身体がふれる程度の感じである。」というものである。

2.右各証言によれば、組合員らが佐久間と口論し、とり囲み、その中に右証言内容のような有形力(佐久間の胸倉をつかんだこと、右肩を突いたこと、ベンチに尻もちをつかせたこと等)を行使した者がいることを認めることができるが、これらの事実が佐久間証言のどの部分と符合するか判然とせず、また右証言をもつて被告人らがその有形力を行使したと認めることもできない。

それのみならず、右証人らは、たまたま現場に居合わせた者で、しかも証言当時は事件発生後約二年であつたから記憶の薄れるのはやむを得ないところではあるが、もし佐久間がその証言の内容の(あるいは公訴事実の内容の)暴力を受けたとしたならば、証人らにとつて異常な事態に属するものというべきであるから、記憶に残るところと認められるのに、右証人らはかかる内容の証言をしていない。

(五)  後掲第七回公判調書中の証人狩野五千夫の供述部分(狩野証言)について

狩野証言によれば、同証人が水飲場付近に至つた際、ベンチ付近で佐久間を取り囲んでいるうちの一人が佐久間の右肩を突いた事実が認められる。

四、佐久間証言の信用性について

佐久間証言は、被告人らが暴力行為に及んだことを具体的かつ詳細に述べているものであるけれども、周囲の目撃証人(組合側の証人及び狩野証人を除く)の証言によつてもその内容が補強されず、かえつてその全体の信用性を疑わしめるものであり、その大筋において信用し難いばかりでなく、具体的な内容についても信用し難いものがある。すなわち、

1.同証言によれば、被告人大場が見取図で佐久間の肩をつかんだというのであるが、三浦証言によれば、三浦は、その時佐久間の右後方を一、二歩遅れて歩いているのであり、被告人大場が佐久間の後方から右肩に手をかけて振り向かせたとするならば、その距離及び見る角度等位置的な関係から同被告人の行動は当然目撃しうるはずであるのに、この点につき三浦証人はこのような状況は記憶していないというのであり、被告人大場の当公判廷における供述(これによると、「大場は佐久間を発見し、スト破り来た大したもんだといつたら、佐久間は高声でおれ何したというんだといつた。ベンチ前の一番線ホーム付近の柱の間あたりで互いに向かい合ううちに組合員が集まり、佐久間に向かつて「裏切者」などと口々にいい、佐久間が口答えしていた。そのうち待合室の前の方にいた三浦科長に気づき、売店付近で三浦科長と話合つた。」という。)を合わせ考えると、右佐久間証言は信用できない。

2.次に佐久間証言によれば、被告人大場は、二回にわたり相当長い時間佐久間の胸倉をつかんでいることになるのであるが、この点に関しては、被告人大場は、当時、当日の友人の結婚披露宴でもらつた引出物(昭和四七年押第一六号の五の丸鏡付状差しと同型のもの)を携帯していたと供述し、これを否定する証拠もないところ、このように引出物を携帯したままこれを落とさずに佐久間の胸元をつかんでいることはかなり困難であると考えられることのほか三浦証言の内容などを合わせ考えるとこの点に関する佐久間証言は信用できない。

3.また佐久間証言によれば、被告人大場が佐久間のそばに居たと明確に供述しているのは、本件紛争当初の見取図よりの地点で同人を押し倒した時点までであり、それ以後行なわれた暴行の現場にいたかどうかは明確でない。しかし同証言によれば、同証人は被告人らの動静については具体的、詳細な供述をなし、途中、被告人福内が姿を消し、同狩野、同森らが一時現場から離れたこと、またその時期について明確に述べており、さらにベンチ前で暴行が行なわれている間被告人ら(被告人福内を除く)の位置関係は変わらない旨述べ、被告人らが佐久間のそばに終始いたことを前提とするかのような供述をなしているのであつて、このような供述態度、内容からすれば、被告人大場が最後までベンチ付近に居たことを暗に認めているものと解されるのである。

しかし、三浦証言によれば、本件の途中で被告人大場が三浦のところに来ていたことは明確な記憶があるというのであり、また阿部証言によれば、ホーム上で騒ぎが始まつてすぐに三浦が仲裁に入つたが、二、三人の者が手を出して三浦が佐久間のところに行くのを阻止し、その中の一人は被告人大場であつたと思う旨供述しているところであつて、これらの証言は、被告人大場の当公判廷における供述にも大筋において符合するものである。そうすると右佐久間証言はこれらと対比し、信用できない。

4.佐久間証言によれば、被告人高橋の行動については見取図付近で騒ぎが始まつた当初より佐久間をベンチ上に押し倒し自らベンチ上にすわり柱に足を出して脱出を防いでいたというところまでの供述は具体的になされている反面、それ以後の同被告人の行動等については触れられていないが、この点も前記3.のごとく、佐久間証人の供述態度から被告人高橋は最後まで佐久間の近くにいたことを承認している供述内容と解しうるところである。しかしながら三浦証言によると、三浦が被告人大場に佐久間の救出を阻止されている間に三浦のところに被告人高橋が来て互いに口論をしたことは明らかであり、右証言に照らせば、佐久間証人の被告人高橋の行動に関する供述部分は信用し難いものである。

5.前記のごとく、佐久間はベンチに三回押し倒された旨供述し、その反面、その間一度も携帯品を手から離していないとも供述し、佐久間が携帯品を手から離さなかつたことは事実と認められる。同人の携帯品は前記一、で認定のとおりであり、もし佐久間証人の供述する通りの暴行が現実に行なわれたとするとその間携帯品を一度も手から離さずにいることはかなり困難ではないかと考えられるのである。特に第一回目に被告人大場に倒された後、同被告人、被告人狩野、同高橋が覆いかぶさつてきたというのであり、第三回目には被告人森に胸倉をとられたうえ、足をかけて倒されたというのであり、左脇にはセルロイドで覆われた時刻表を中に入れて二つに折りたたんだ座布団をはさんでいたのであつて、特に時刻表はセルロイドで滑りやすく、また携帯の方法も脇にはさむという不確実な方法であり、わずかの衝撃に対しても落ちやすいと考えられるのであつて、一度も携帯品を落とさないでいることはかなり困難である。このことから、そもそも同証人が供述しているような程度の暴行があつたかどうかにつき疑問が生じる。

6.佐久間証人は、被告人らの暴行行為により足から血が流れていた、頭部が腫れていた旨供述するが、その信用し難いことは後記五、に説明するとおりである。

7.以上に述べたごとく佐久間証人の供述部分の信用性には疑問の余地があるが、その信用性を考えるに当つては、佐久間と被告人らとの関係、対立感情等も有力な資料となりうるのである。

前記、本件に至る経緯で述べたごとく、被告人ら組合員は、佐久間が以前に動労小牛田支部の役員までしていたのに脱退したことに激昂し、脱退者の中でも特に同人に対し敵意を抱いていたものとうかがわれ、一方佐久間も動労組合員より何回もいやがらせ行為を受け(佐久間証言)、被告人らを含む動労組合員に対し同じく敵意と憤りを感じ、強く反発している態度がその供述部分に如実にうかがわれ、証言内容に事実の歪曲、誇張が含まれるおそれがあるというべきである。

8.ところで、佐久間証言以外の証人の証言によると、口論に際し、氏名不詳者が佐久間の胸倉をつかみ、他の者が同人の右肩を突き(酒井証言、鈴木証言、狩野証言による。)、同人をベンチに尻もちをつかせる等の有形力を行使したことが認められる(鎌田証言、鈴木証言による。)ので、この限度においてこれらの行為が佐久間証言とどの程度符号するかにつき再検討するに、まず、氏名不詳者が佐久間の胸倉をつかんだという点については、前記のとおり認めうるところであるが、前記記載のごとく佐久間証言中、被告人大場の行動に関する部分は信用性がなく、他にその行為者を特定する証拠は存しない。次に氏名不詳者が右肩を突いたという事実については、鈴木証言にいうそれと狩野証言にいうそれとが果して同一事実を指すのかどうかが不明であり、佐久間証言によつては被告人らのうち右の行為がだれのどのような状況下においてなされたものであるかにつき特定することができない。さらに佐久間がベンチに尻もちをつかされた点については、その行為が認められるのはせいぜい一回であり、かつだれのどのような行為によつてなされたかについても全く不明であり、佐久間証言ではベンチに倒されたことは三回であり、右認定しうる事実が、同証言のいかなる部分と符合するのかについても明確でない。したがつてベンチに佐久間を押し倒した行為者については特定し得ないものといわざるを得ない。

以上に述べたごとく、本件において暴行行為の目撃者たる右各証人の証言をもつてしても佐久間証言の信用性は補強されず、かえつて組合員らは、右認定程度の有形力を行使したにとどまるのではないかと推測されるのである。

五、佐久間裕の受けた傷害について

(一)佐久間証言(第三回公判調書)、三浦証言、第九回公判調書中の証人山崎俊秀、第一〇回公判調書中の証人武田寛、第一四回公判調書中の証人熱海徳夫の各供述部分、司法警察員作成の実況見分調書(但し三の2ないし四を除く。)医師山崎俊秀作成の診断書、医師熱海徳夫作成の健保カルテ(昭和四七年押第一六号の一)によれば以下の事実が認められる。

1.佐久間は前記ホーム上で動労小牛田支部組合員らにとりまかれた後、三浦に救出され、昭和四四年一一月三日午後六時ころまでには陸石線管理所車両科に戻り終業点呼を受け、さらに右騒ぎにつき上司に報告をした後、午後七時三〇分ころ熱海徳夫医師を訪れ診断を受けた。同医師はレントゲンを撮つたが異常は見られず、外見上は両下腿部の小範囲に腫脹が存するのみで、出血を伴う「創」も内出血も存しなかつたが、佐久間を問診した結果、同人より右側頭部、前額部、背部が痛むと訴えられたため、湿布する等の治療を行ない、右診察にもとづき、頭部、両側下腿、背部挫傷と診断した。佐久間は同月五日、六日にも同医師を訪れ診断治療を受けた。

2.佐久間は、同月三日熱海医師の診断を終えた後、午後九時ころ一度自宅に帰つたが、警察署の呼出を受け、翌四日午前零時過ぎころまで、小牛田警察署において事情を聴取され、同日午前八時ないし九時ころより午後零時ころまで前同様警察署で事情聴取を受け、同日午後一時四〇分ころより三時一五分ころまでの間小牛田駅一、二番線ホーム上で実況見分の立会人として立会つたのであるが、右事情聴取及び実況見分の際別段苦痛も訴えず異常は認められなかつた。なお、佐久間は本件が原因で同日より約一週間欠勤した。

3.佐久間は、同月六日、仙台市内にある国鉄仙台鉄道病院にも治療を受けにゆき、医師山崎俊秀に診断を受け、同医師に対し、頭部、右側胸部、右下腿部に痛みがあることを訴え、同医師は、同人の訴えにより頭部打撲、側胸、右下腿挫傷の診断をなしたが、右部位にはいずれも外見上の異常は認められず、専ら同人を問診した結果なされた判断である。佐久間は湿布等の治療を受け、同月一〇日、一四日にもそれぞれ同医師を訪れ湿布薬、精神安定剤等の薬品を受け取り、同月二五日同医師より全治診断書の交付を受けた。

(二)右認定のごとく熱海医師が診断した際、外見上異常が認められたのは両下腿部の腫脹のみであり、他の部分はいずれも佐久間の訴え(問診に対する答え)にもとづき診断したものである。一般的に医師作成の傷害部位についての診断書、カルテ等は信用しうるものではあるが、外観的症状がなく患者の訴えのみを基礎として診断がなされる場合には、患者の訴えのとおりの診断書が作成され、その訴えに見合つた治療がなされる可能性が大であり、患者が虚偽又は誇張した訴えをした場合には医師作成の診断書やカルテを信用できない場合もありうるのである。

そこで本件において傷害の部位程度につき虚偽又は誇張が入るおそれがないかどうかにつき検討する。

佐久間証言によると、佐久間は組合員らの暴力行為により足から血が流れ、頭部が腫れていたというのであるが、右に認定したごとく、その診断はなく、右証言はかえつて虚偽又は誇張と解されること、熱海医師と山崎医師とでは診断した傷害部位に差違があること(後者については側胸部挫傷がつけ加わる。)、また特段の合理的な理由もなく二つの病院へ通つていること(佐久間証言によれば、熱海医師は国鉄の嘱託医で後に動労との関係で迷惑がかかるため病院を変えた旨弁解するが、合理的な弁解とは思われない。)、受傷当日である一一月三日も午後九時以降一二時過ぎまで、翌一一月四日も午前中から午後にかけ事情聴取、実況見分等に応じ、その間痛みとか苦痛を訴え、帰宅を希望したこともなかつたのであり、そのような外観的状況にもかかわらず、約一週間の長期にわたり欠勤し、しかもその間に外出もしていることがうかがわれ(佐久間証言、第一九回公判調書中の証人細川幸男の供述部分)、以上の諸事実を総合して考察すれば、佐久間の医師に対する訴えには多分に虚偽又は誇張が介在しているのではないかと疑われ、ひいてはそれに基づき作成された診断書、カルテは、佐久間の訴えにかかる部分の信用性には疑問の余地があり、他に証拠もない以上、両下腿部挫傷以外の傷害を認定することはできないといわざるを得ない。

以上のとおりで、本件証拠から客観的に認められる同人の傷害は事件直後に存した前記両下腿部の腫脹程度であつて、それも一一月六日の山崎医師の診断時にはその痕跡もなかつたところのものに過ぎない。

六、被告人ら五名の刑事責任について

佐久間証人以外の証人の証言及び前記実況見分調書と被告人らの公判廷における供述を総合すると、被告人らを含む動労組合員がたまたま出合つた佐久間に対し、まず被告人大場が「スト破り、裏切者」などと申しむけホームのベンチ前の柱付近で口論となり、いずれも結婚披露宴帰りの酒気を帯びた組合員らが段々集まり、同人をとり囲むようになつて騒ぎが大きくなり、そのやりとりの内に氏名不詳の組合員が佐久間の胸倉をつかみ、押したりゆさぶつたりし、あるいは同人の右肩を突くなどし、さらにベンチの所で同人を押して荷物の上に尻もちをつかせた等の事実が認められる。

しかしながら、右所為が被告人らによつて直接なされたと認めるに足りる証拠はないので、右の所為につき被告人ら五名が氏名不詳者と共謀共同正犯の責任を負うかどうかについて検討する。

まず本件は、動労組合の脱退等をめぐつて佐久間と対立していた被告人らを含む組合員とが、たまたま小牛田駅ホーム上で顔を合わせたことに端を発し、口論となり、その際にいわば偶発的に発生した事件であるとみられるばかりでなく、佐久間を囲んだ組合員らの行動も流動的であり、その間における被告人らの動静が必ずしも詳らかではないところと認められる。被告人ら及び佐久間を囲んだ組合員の集団が佐久間に対し、敵対感情を抱いて抗議をしていたとしても、そのことから直ちに被告人らとこれら氏名不詳者との間に共同加功の意思があつたと認定することはできない。そして佐久間を囲んだ被告人ら及び組合員らの動きは前述のように流動的なのであつて、このような状況の下ではたまたま単発的に加えられた暴行につき被告人らがこれらを認識していたかどうかさえ疑問なのであつて、いわんや共同加功の意思を認めることはできない。

なお、被告人大場、同高橋については、同被告人らが三浦の救出活動を阻止したとすれば、そのことが佐久間に対する暴行に加功する意思を推測せしめる事情となるのではないかという点について検討するに、三浦証言及び被告人大場の当公判廷における供述によれば、見取図において、同被告人は三浦を一応阻止していた外形事実は認められるが、他方その間両人の間で昭和四四年一〇月三一日のストライキに関する様々の話が交わされていること、三浦は制止の手を振りほどき二回くらい佐久間が囲まれている付近に至つていることが認められるのであり、被告人大場において、三浦が佐久間を救出するのを妨害すべき目的で同人の行動を阻止したのかどうか疑わしく、仮にその目的で阻止していたとしても、同被告人が氏名不詳の組合員の単発的な暴行を相互に認識していたものと認め難い以上、同被告人につき右暴行につき共同加功の意思を認めることはできない。

また、被告人高橋が三浦の付近にいたのはごく短時間であつて、前記認定の氏名不詳者の暴行行為を相互に認識し、相協力すべき程度のものではなかつたと認められる。

以上のとおりで、被告人らに右所為につき被告人ら相互間のみならず、その氏名不詳者との事前共謀はもとより現場共謀が成立していたものと認めることはできない。

七、結論

以上のごとく、被告人大場、同高橋、同森、同狩野、同福内に対する本件公訴事実第一の公務執行妨害及び傷害については、同被告人五名がそれぞれその手段たる暴行行為を行なつたとする証明及び被告人五名が暴行行為の実行行為者と共犯の関係が成立するとの証明がいずれも不十分であり、犯罪の証明がないことになるから刑事訴訟法三三六条により、被告人大場、同高橋、同森、同狩野、同福内に対し無罪の言渡をする。

第五、本件公訴事実第二について

一、証拠によつて認定しうる事実

第七、八回公判調書中の証人狩野五千夫の供述部分(狩野証言)、第一〇回公判調書中の同鈴木美代子の供述部分(鈴木証言)、被告人高橋、同千葉繁、同千葉昭治の当公判廷における各供述によれば以下の各事実が認められる。

(一)  狩野五千夫は、鉄道公安職員として小牛田鉄道公安室に勤務しており、昭和四四年一一月三日は午前八時三〇分より二四時間勤務に就き、同日午後五時より小牛田駅一、二番線ホーム上で警ら勤務に当り、同ホーム待合室南側付近において、同駅発一七時二五分急行千秋二号の出発を見送り、同ホーム上の二番線寄りを待合室北側売店付近に至つたところ、ベンチの一番線寄りで約二〇名ぐらいの者が騒いでいるのを目撃し(公訴事実第一で詳述した騒ぎである。)、その集団中に被告人千葉繁及び佐久間を発見し、その集団中の氏名不詳者が佐久間の右肩を突いたのを目撃するに及んで動労を脱退した者が抗議を受けているものととつさに判断し、その騒ぎを収拾する目的でその騒ぎの集団に近づき、ベンチ南端一番線ホーム寄り付近(見取図<イ>)に至つた。

(二)  狩野は右同所に至つたところ、被告人千葉繁が「いいから、いいから、公安じやまだから。」と言いながら狩野に帰るように説得したが、同人が無理矢理同被告人らのいる人垣を押し分けて中に入ろうとしたため、同被告人において両手で狩野の胸部付近を二、三回押しとどめ、四、五名の者がそのまわりをとり囲み、そのうちの氏名不詳者が狩野の右の袖を引つ張り、同人との間で約三〇秒ぐらいの間押問答となつたが、同人はそれを振り切つて結局その集団の中に入ることができた。

(三)  狩野は集団の中に入り、騒ぎを制止しながらベンチ付近にいた佐久間のところまで至つたが、騒ぎが静まらないため、まず佐久間を集団の外へ連れ出すべく、同人の手をとり、ベンチとその前にある柱との間を南側へ抜け出ようとしたところ、被告人高橋がベンチ南端に腰掛け、足を前の柱に投げ出していたため(見取図<ロ>)外に出ることができなかつたが、同所付近が最も人垣が薄いと判断して同所より外に出ることとし、同被告人に足をどけるよう命じた。狩野は、同被告人が足をどけなかつたため膝で同被告人の足を押しのけたところ、たまたまそばに立つていた被告人千葉昭治(見取図<ハ>)の身体に同高橋の足が当り、そのため被告人千葉昭治は、狩野が足で蹴つたものと誤信し、「なんだこのやろう、人の足けつたくつて」と抗議したが、狩野はその抗議には一切返答せず、再びその場所から外へ出ようと考え、被告人高橋の足を押しのければ再び同千葉昭治に当るかもしれないことを認識しながら、同高橋の足を膝で押しのけ、その足が再び同千葉昭治の身体に当つたため、同被告人は、狩野が再び足蹴りにしたものと誤信し、「また人の足をけつたくつて」と怒鳴りながら狩野の行為に激怒して文句を言い、狩野が弁解したが収まらず、押問答となつたところ、付近の四、五名の者が狩野の服をつかんだり、引つ張つたりし、被告人千葉昭治において狩野の胸の辺りをつかみ左の袖をつかんだりして文句を言つた。狩野は四、五名の者に押されながら、ベンチの北側の方へ移動し(見取図<ニ>)、同所より佐久間の方へ戻ろうとしたところ、狩野が責任をうやむやにして逃げるものと思い込んだ被告人千葉昭治は狩野の態度に激昂し、「このやろう」といいながら狩野の胸倉を右手でつかみ、二、三回ゆさぶり、狩野がその手を振りほどこうとしたため同人の制服の第一ボタンがとれ、その間に氏名不詳者より左足を一回蹴られた。

なお、検察官、弁護人は右に認定した事実経過以後の狩野五千夫と被告人千葉昭治との騒ぎにつき主張し弁論するが、本件公訴事実第二の訴因は検察官の釈明によれば、右認定事実までであり、それ以後の事実関係は本件と関係がないので認定を省略する。

二、被告人らの刑事責任について

(一)  狩野五千夫の公務の適法性

まず被告人千葉繁が阻止しようとした狩野五千夫の行為が適法であつたかどうかを検討するに、鉄道公安職員は、鉄道公安職員の職務に関する法律により国鉄の列車、停車場その他輸送に直接必要な鉄道施設内における犯罪及び国鉄の運輸業務に対する犯罪について捜査の権限を持つ犯罪捜査機関としての地位を有する一方、国鉄の役職員としての地位を有し、その地位と職務は、日本国有鉄道法及び同法三二条に基づいて定められた「鉄道公安職員基本規程(管理規定)」(昭和三九年四月一日総裁達一六〇号、昭和四三年一月総裁達一五号により改正)等により規律され、その規程二条、四条によつて警備的な職務に従事するのであり、かかる職務は日本国有鉄道法三四条一項により公務執行妨害罪の客体たる公務に該当するものといわなければならない。(最高裁第二小法廷昭和三九年八月二五日決定、裁判集刑事一五二号五八七頁、最高裁大法廷昭和四三年(あ)第八三七号昭和四八年四月二五日判決、刑集二七巻三号四一八頁参照)本件において、狩野五千夫がホーム上を警らしていた職務行為は、同規程二条、九条に定められたものであり、佐久間をとりまく集団の騒ぎの中に入り、騒ぎを制止し、佐久間を救出しようとした行為は、同規程四条の(2)、一一条、一六条による旅客公衆の秩序維持の職務行為に該当し、その職務が公務執行妨害罪の公務に該当し、その執行中であつたことは前記認定により明らかである。

なお弁護人は、鉄道公安職員制度の成立過程における立法趣旨から、労働組合上の紛争には鉄道公安職員は介入し得ないのであり、そのような介入行為は公務としての保護法益に欠ける旨主張するが、法規の文言上右主張のごとき限定はなく、ことに本件はいわゆる労働組合上の紛争そのものではないのであつて、右のような職務であつても「公務」として保護すべきことは当然であるから、弁護人の主張は採用し得ない。

次に鉄道公安職員は、旅客公衆の秩序維持のための職務の執行に当り、できうる限り説得による秩序回復の方法を用いるべきであるが、暴行、脅迫等の不法行為の発生を防止するため(前記規程一一条)、被害者を救出することもまた秩序回復の一方法であり、その救出にあたり、それを阻止する者に対し、暴力行為にわたらない程度の最小限の実力行使は許されるべきであると解される。本件において、被告人ら組合員が佐久間に対し、一見明白な暴行、脅迫をなした状況にあつたかどうかは疑問であるとしても、集団で佐久間をとり囲み口論していた状況にあり、狩野は組合員らに説得を試みたが騒ぎが収まらず、佐久間が右肩を突かれたのを目撃していたためにさらに暴行を受けると判断して同人を早急に救出しようとの意図の下に集団に入ろうとしたのであり、その行為自体は適法であつたというべきである。

他方被告人ら組合員が佐久間に対してなした抗議行動がその動機において、佐久間がストライキ直前に動労を脱退し、組合の団結を侵害したことに対する抗議にあるとしても、結婚式披露宴の帰途、酒気を帯びてたまたま佐久間に出合つたことを奇貨とし、その抗議行動を旅客公衆の混みあう駅のホーム上で行なうことが、正当な組合活動であるとはとうてい解し得ないところである。したがつて被告人ら組合員が佐久間に対する抗議行動をなしたとはいえ、駅のホーム上で騒ぎを起こした以上被告人らの集団に公安職員の介入を阻止する正当な利益は存しなかつたというべきである。

(二)  被告人両名及びその他氏名不詳者との共謀の成否について

両被告人及びその他氏名不詳の組合員が狩野公安職員に対してなした所為は前記認定のとおりであるが、右認定事実によると、被告人千葉繁の行為は狩野が集団の中に入ろうとする段階であり、被告人千葉昭治の行為は狩野が集団の中に入つた後、その中から脱出しようとしたときであつて、両被告人の行為はそれぞれその状況に応じて偶発的かつ単発的になされたものと認められ、その相互間において相協力し、同一行動をとつたとの証明もなく、現場共謀が成立する場合とは解されない。また、狩野に対し氏名不詳者が足蹴り等をした所為についても、右状況の下においては、両被告人がともに動労の組合員であり、等しく佐久間や狩野に敵対意識を抱いていたことが認められるにせよ、両被告人、ことに被告人千葉昭治においては足蹴りというような典型的な暴力をふるうことの意図も認識も認められないので、その間に氏名不詳者との現場共謀が成立すると解することはできない。もつとも、被告人千葉繁が、狩野が集団の中に入るのを押しとどめ、そのまわりの四、五名のうちの氏名不詳者が狩野の袖を引つ張り、中に入るのを阻止しようとした行為については、同被告人との現場共謀が成立するものと解する。

(三)  被告人千葉繁の行為について

被告人千葉繁は、氏名不詳者と共に狩野公安職員の救出行為に対し、押しとどめ、袖を引つ張る等により阻止し、同人の公務の執行を妨害したものというべきである。

しかしながら、その主たる目的は、鉄道公安職員が介入すればかえつて騒ぎが大きくなることを憂慮し、公安職員を説得して介入させまいとしたことにあつたと思料されるし、狩野の胸を押したのも同人が被告人らを押して中に分け入ろうとしたため反射的、受動的に押し戻した程度のものと解され、いわば典型的な暴力行為ではないし、かつ、同被告人のほか四、五名の氏名不詳者が阻止したのもわずか三〇秒ぐらいであり、狩野は同被告人らを振り切つて集団の中に入り、救出の目的をとげたもので被害も微弱であつたと認められる。

以上によれば、被告人千葉繁の行為は、外見的には刑法九五条の公務執行妨害に該当するけれども、同罰条の予想する可罰的程度の違法性を有しないものというべきであるから、構成要件該当性を阻却し、右行為につき犯罪は成立しない。

(四)  被告人千葉昭治の行為について

被告人千葉昭治は、狩野公安職員の前記救出行為をなすにつき同人の胸倉をつかみ二、三回ゆさぶる暴行をなして同人の公務の執行を妨害したものということができる。

しかしながら、狩野の行為について見ると、佐久間が暴行を受けるのではないかとの危惧はあつたにせよ、同人に対し現に侵害行為が行なわれている等の緊急状態でもなかつたことがうかがわれ、狩野公安職員が妨害物のあるところを二度にわたり強行突破しようとしたことはやや性急であり、手段の選択は違法とはいえないにせよ妥当とは評し難いものがある。すなわち、一度目に被告人高橋の足を押しのけ被告人千葉昭治に当つた時点で同被告人から蹴つたと抗議された時、事情を説明せず先を急いだことが同被告人の怒りを買つた原因となつているのであり、事態の対処の方法が適切を欠いたこと、二度目は同被告人の身体に同高橋の足が当るかもしれないことを予知しているのであつてその時点で高橋の足を取り払うにつき別の手段をとるべきであつたと思われる。

このような状況の下で、同被告人が狩野に直接蹴られたと誤信したのは無理からぬものがあるといわざるを得ない。同被告人が二度目に狩野の胸倉をつかんだのも、両人の間の口論に決着がつかないうちに狩野が現場を去ろうとしたため、この問題をうやむやにしたまま逃げるものと考え、同人の態度に立腹し、かつ逃げられないようにするため右行為に及んだというものであり、狩野の妥当性を欠く行為を考慮すれば、同被告人が誤信し、右のような行為に出るのもまことに無理からぬものがあるといわなければならない。さらに、その行為の態様も胸倉をつかむという程度であつて通常反撃に伴つてなされる典型的な暴力行為ではなく、反撃の方法としては最も軽微なものであるし、かつ本件は騒ぎの終末に近いころであつて、その行為もごく短かい時間であつたことが認められ、被害も微弱であつたと認められる。(なお、前記認定のごとく狩野の第一ボタンがとれているが、被告人の胸倉をつかんでいる手を狩野がはずすため強く引き離した結果によるもので、同被告人が引きちぎつたものではないと認められる。)

以上によれば、被告人千葉昭治の行為も、外見的には刑法九五条の公務執行妨害に該当するけれども、同罰条の予想する可罰的程度の違法性を有しないものというべきであるから、構成要件該当性を阻却し、犯罪は成立しない。

三、結論

したがつて被告人千葉繁、同千葉昭治に対する公訴事実第二については、犯罪の証明がないことになるから、刑事訴訟法三三六条により右両被告人に対し無罪の言渡をする。

よつて主文のとおり判決する。

(別紙) 小牛田駅1、2番線ホーム見取図

<省略>